【 シロクマ冬眠記!】

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写真で綴る徒然日記

生と活

生きているのか、死んでいるのか。

わたしたちの国は昭和の時代に戦争をした。
その戦争では、300万人以上が犠牲となったと言われている。
軍人も民間人も...
とにかく、この国の人だけでも300万人以上が死んだのだ。
東京では、一夜にして8万人以上が死に、
広島、長崎でも10万人前後の人が、
その一瞬の出来事が原因で死んでいる。
もう一度言う。
数年で、300万人以上の仲間が死んでいる。
そして全国民1億人が、
仲間300万人が死んでいるという現実とともに、
自分達も、死を宣告されながら生きていたと思う。
いつ来るか分からない空襲。
いつ始まるか分からない攻撃。
いつ尽きるか分からない食料。
いつ出るか分からない命令。
決死でも、必死でもない、「死ね」というやり方。
そこには明らかに、充満する死の影があったはずだ。

ところがだ。
この手の話のドキュメンタリーや、手記や、文章を読んでいると、
その暗澹たる世の中の状況とは逆の、人々の輝きを感じることがある。
当時の本当の世俗は自分には分からない。
それは、場所によっても、人によっても違うと思う。
しかし、このような状況だからこそなのか、
晴れ晴れとした、さっぱりとした、
それは上辺だけのお題目や、教育や、統制の結果などではなく、
それこそ、死が満ちている中の、生の輝きをたまらなく感じることがある。
あのような世の中が、良い訳はない。
そうなって良いはずはない。
では...
あの、彼らの、自分達の祖父母の時代に感じる、
あの感覚とはいったい何なのだろうか。

そしてその後、死を宣告されていたであろう1億人の人達は、
ある日突然に、その死の宣告から開放される。
それは恐らく、仲間300万人の犠牲者と引き換えに、
与えられた命、「与命」と感じた人も多かったのではないだろうか。
それは、
その後の戦後復興から、高度経済成長期、
更にそれに続いていく世の中の混沌の中で、
全員の共通認識があったような気がしてならない。
与えられた命。
引き換えられてしまった命。
それは、日々意識したり、がなったりするようなスローガンではなく、
潜在的に存在する、意識の共通認識のようなもの。
それが、この奇跡的な復興、成長を支えたと共に、
社会の規範をなし、世の中をまとめていったのではないだろうか。

そして、わたしたちの世代には、それは無い。皆無だといってよい。
「この今の腐れた世の中...」
と、のたまっただけで、鼻で笑われそうなこの虚無の中で、
これらの土台の上に居ながら、
その世の中から享受されるものだけで、
脳天気に生きながらえているこの世代が、
はたして、生きているのか、死んでいるのか。

今や贅沢を言わなければ、生活していくのはそう難しいことではない。
だからこそ、
どのような世の中が良い世の中なのか、
どのような世の中が素敵な世の中なのか、
そのイメージすら沸かないこの時代に、
それらを模索する義務があるのではないか。

果たして、我々は、活きているのか?

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by whitekuma | 2006-09-16 23:58